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マッチ産業の面影【丸玉工場の跡】

寄稿記事Vol.4
約120年前のお話しです。知れば知るほど行きたくなる、ディープな湧別をお楽しみください♪


道々上社名淵上湧別線(通称18号線)をウォーキングコースとして歩き始めました。
この道路は国道242号線から上湧別橋手前まで南側に片側歩道が設けられています。

上湧別橋方面を見た「道々336号 上社名淵上湧別線」(通称18号線)

この道路の上湧別端手前の歩道側に「丸玉工場の跡」という記念碑があります。

この記念碑の裏に説明書きがあります。

「明治40年、大阪の井上貞次郎等がこの地にマッチ軸木工場を建設した。
その後大正5年、丸玉鈴木商工株式会社が工場を買収し、(玉)湧別工場として、ベニア製造、製軸事業を行い、最盛期には八十余名の社員を有していたが、大正10年に工場を閉鎖した。」とあります。(※玉は囲み文字)

明治40年(1907年)は屯田兵入植が明治30年(1897年)であるから入植10年後のことです。
20代以下の方の中には火を付ける道具としてチャッカマンなどの商品名で知られるガスライターは知っていても、マッチの現物を見たことがない方やマッチ自体を知らない方がいるのではないでしょうか。
マッチを置いていない家庭もあるのではないかと思い写真を添付します。

マッチ箱
マッチ擦り
マッチ点火

火打ち石で火を付ける江戸時代が終わり、明治・大正・昭和とマッチはガスライターが普及するまで火を付ける道具の主役でした。

日本のマッチは1912年(大正元年)には生産量の85%が輸出されるほどマッチ産業が盛んだったそうです。(参考資料:マッチの世界

明治時代は兵庫、大阪などがマッチ生産の主要な県でしたが、マッチの軸に適した白楊材が北海道の開発と共に道内各地で見つかり、明治24年(1891年)に網走大曲に、明治34年(1901年)に信部内などにマッチの製軸工場が開設されています。(開基百年 上湧別町史より)

マッチに関する年表をインターネットで見ると、「1900年(明治33年)、大阪、公益社の井上貞治郎が細軸(1.5mm軸)マッチを考案。安全マッチ1箱の軸木入本数を60本から100~120本までにする。」との記載があり、公益社の井上貞治郎はマッチ業界では有名人らしいです。(参考資料:ガンバレ!姫路のモノづくり電子じばさん館

マッチの軸の材料となる白楊(はくよう)はヤナギ科の落葉高木でドロヤナギ、ドロノキともいい、日当たりのよい湿潤地に生え、当時は北兵村一区東側のヌッポコマナイ沢や富美原野から切り出されたとあります。(開基百年 上湧別町史より)(白楊について

現在も自生している白楊がありました

湧別は屯田兵入植により、明治30年には2,617人、明治35年には屯田兵の家族、親族などの呼び寄せなどにより6,090人に増加し、明治42年には10,042人に達しています。(開基百年 上湧別町史より)

明治42年は現在の湧別町より人口が多かった!
(湧別町広報によると7月末現在湧別町人口は8,045人)
屯田兵入植から12年で1万人の大台に達したのは、碑に刻まれている「最盛期には八十余名の社員を有していた」という記述からも、この地元の林産資源が活用されたことが人口増加に一役買っていたと思われます。

この湧別で自生していた樹木がマッチになり、その一部は海外に輸出されていた事実はあまり知られていないのではないでしょうか。

白楊の葉。裏面は白く、葉の周りには細かなギザギザがあります。


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