昔のかみゆうべつチューリップ公園
かみゆうべつチューリップ公園の知名度はマスメディアの紹介により、全道各地に知れ渡っていますが、ここまで知れ渡ったにはそれなりの歴史があります。
なぜ、上湧別にチューリップ公園なのか?
それは農家の農地所有面積に関係があります。
湧別町は旧湧別町と旧上湧別町が平成21年に合併した町で、上湧別町は屯田兵で開拓された町です。
屯田兵には一戸5町(5ヘクタール)の土地が与えられました。
当時の農民にとっては大きな面積でしたが、今では一戸20~30ヘクタールが当たり前の時代になりました。
昭和40年前後でも5ヘクタールの面積でビート(甜菜)、ジャガイモ、小麦の作付けだけでは生活が苦しかったのです。
そのため、高収益の換金作物として当時の農業改良普及員の故 西川照憲さんがチューリップ球根の栽培を普及し、南兵村三区を中心に作付けされました。
しかし、昭和41年(1966年)、オランダのチューリップ球根価格のダンピングにより、収益が減り作付けされなくなりました。
しかし、現チューリップ公園の一角に老人農園があり、昔を懐かしがった高齢者がチューリップ栽培をしていました。
当時、国道沿いに咲くチューリップがあまりにも綺麗だったので、足を止める人が多くいました。
そこで、ある町職員がチューリップフェアをやらせて欲しいと町長にお願いしたのがフェアの始まりと聞いています。
最初のチューリップフェアが実施されたのは、昭和61~62年頃と記憶しています。その後、風車型の管理棟が建てられ、駐車場が整備され、トイレが整備され、物販店舗・球根乾燥貯蔵施設などが整備されました。
写真と当時のパンフレットには風車の背後に電柱と電線が見えます。
これは国鉄名寄本線です。 名寄本線は1989年(平成元年)5月1日に廃線になりました。
上の写真の左上に青い屋根の建物が見えますが、鉄道の駅(北湧乗降場)です。 湧別方面や開盛方面からの中学生が通学に利用していました。これらの写真は平成元年頃の写真だったと思います。
当時のパンフレットには町有地の東山(ひがしやま)にチューリップの形に芝桜が植えられ、周りを電飾で照らされ、夜間も遠軽方面から来るとチューリップの形に鮮やかに浮かび上がりました。
この電飾は後に、上湧別町が漫画の町として町おこしをしようとしていたこともあり、花の部分に目と口を電飾で描き、泣き、笑い、怒るを電飾で描きました。
この芝桜も管理されなくなり、段々雑草に侵食され、電飾も行われなくなり、今は昔の面影はありません。
かみゆうべつチューリップ公園は全道から、ツアー客では本州や海外からも滝上町や大空町の芝桜と合わせたルートで観光客が訪れます。
このかみゆうべつチューリップ公園を観光地として末永く維持していくには、これからますます、新しいアイディアとその実行が欠かせないでしょう。
以下は現在の公園です。