主要作物の転換期に農家・農協・町・農業改良普及所はどう行動したかNo.3
~基幹作物の模索~タマネギ栽培へ~
アスパラガスの作付面積が減少していき、基幹作物を模索していく中で、タマネギを推す動きが出てきます。
このタマネギが農協によって計画的に作付けされるようになったのは、昭和46年に当時の上湧別農協の農産課長が北兵村一区の農家にお願いして、最初に本格的に作付けしてもらったのが始まりです。
タマネギを推奨する一番の理由はタマネギが高収益な野菜だということです。
また、連作が可能であり、大きな面積に作付け可能で当時の町内の平均耕作面積10ha前後の大部分をタマネギ作付けに当てることができる点も挙げられます。
当時から畑作3品(ビート、小麦、ジャガイモ)の反収は10万円と言われていました。10ha前後の平均耕作面積で畑作3品の輪作だけでは、経費を引くと農家の収益は少なく、経営が成り立ちませんでした。
十勝地方の様に平均耕作面積が30~40ヘクタールもあれば、畑作3品の輪作で収益を上げていくことも可能ですが(十勝は豆を加えた畑作4品で輪作体型を維持)、上湧別の平均耕作面積で生活を維持するには高収益作物を導入しないと無理でした。
農協としては、大きな面積で作付けできる野菜を根付かせて、畑作3品の輪作体系から脱却する必要があったのです(小さい面積で高収益では、いつまで経っても畑作3品の輪作体系から抜け出せない)。
そのため、農協はアスパラガスに替わる次の作物としてタマネギの作付けを強力に推し進めていきます。
最初は少ない面積でも良いから試験的に作付けさせ、徐々に面積を増やしていくよう指導していきました。
試験的な作付けでは、投資を抑えて手作業で収穫するなどしてタマネギの作付けに慣れてもらい、反当たりの収益が高いことを確認してもらう事が普及には必要になります。
作付面積が増えるごとに、移植機や収穫作業機械の共同購入を推し進めて、農家の基幹作物となるよう指導していきました。
平成時代にはタマネギ価格の暴落により、生産調整が行われたりして、出荷の段ボール代も出ない時もありましたが、ここ十数年は価格が安定しています。
これは外食産業などで肉の消費が大きくなり、肉と一緒に食べられる野菜としてのタマネギの消費が伸びているためと思われます。
更に平成になって整備された畑地潅漑設備がタマネギの出荷価格の安定に大きく貢献してきました。
タマネギは6月から7月にかけて球の肥大期に入ります。この期間に十分な降水がないと球の肥大が遅れ、小玉のタマネギしか作れず価格も低下します。
オホーツク海は日本でも最も降水量の少ない地域ですので、この期間に降水がないのはタマネギにとって致命的です。
畑地潅漑設備で干ばつ時に潅水が行えることは、タマネギの安定した収益をもたらす上で非常に有益に働きました。
道内で小雨が続いて他の地域が小玉で不作の時も、潅水により町内では安定した大きさのタマネギが収穫できています。
タマネギ導入当初は面積が少なければ当時の写真のように手作業などで機械の投資も抑えられますが、面積が増えてきて、また時代が進むにつれ、播種機、移植機、オニオンピッカー、オニオンタッピングマシーン、収穫用のコンテナなどの投資に数千万円かかるようになります。
最初はあまりの投資金額に躊躇しますが、機械の共同購入などを勧めることで投資を抑え、タマネギを導入しやすくしていきました。
時代と共に機械化が進み、後から参入するほど、初期投資も大きくなってきました。
現在はほとんどのタマネギ農家は単独で機械やコンテナを揃えています。
アスパラガスが衰退していく中で、町内でタマネギが先行作付けされていて下地があったこと、農協が強力に普及を推し進めたことが、現在の産地形成に繋がったのでしょう。
この期間、タマネギの選果施設を建設し、翌年5月頃まで安定出荷ができるようにタマネギ貯蔵庫を次から次へと建設するなど農協はタマネギに力を入れていきました。
次回に続く