主要作物の転換期に農家・農協・町・農業改良普及所はどう行動したか No.1
~バイオテクノロジーでアスパラガスの増殖を試みた時代~
上湧別地区の湧別平野は湧別川によって作られた肥沃な土地で畑作に適しています。
明治30年からの屯田兵開拓からいろいろな作物が作られてきましたが、時代の移り変わりとともに、主要作物も変化してきました。
今は全く見ない稲作も減反政策が行われるまで作付けされていました。
昭和40年代までは北限のリンゴで有名でした。
リンゴが腐らん病・黒星病などで衰退すると、畑作3品(ビート・ジャガイモ・小麦)とともにホワイトアスパラガスが高収益作物として作付けされていきます。
そしてホワイトアスパラガスも斑点病や茎枯病の蔓延による減収と中国からの安いホワイトアスパラガスの缶詰輸入により衰退していきます。
そして、現在の主要産品のタマネギに主役が移っていきました。
主要産品がダメになる度に農家は悩み、新しい作物に試行錯誤しながらトライし、次の主産品を見つけてきたのでしょうが、そこには色々な物語があったと思います。
アスパラガスからタマネギにシフトしたとき、私はアスパラガスの組織培養(生産量の多いアスパラガスを試験管内で増殖する)の仕事に従事していました。私の目から見た当時の農業の状況を記していきたいと思います。
旧上湧別町では、腐らん病や黒星病で特産のりんごの木が打撃を受け生産量が減少していきます。
昭和46年の245ヘクタールをピークに同年からの腐らん病や黒星病の発生により、昭和53年には74ヘクタール、平成元年には5ヘクタールまでなくなっていきます。(「開基百年上湧別町史」327ページより)
それを補うようにホワイトアスパラガスの生産が増えてきました。
アスパラガスは昭和28年に町内に導入され、38戸、7.73ヘクタールでしたが、昭和36年23ヘクタールになっています。
昭和41年に地元にホクユウ食品工業などのホワイトアスパラガスの缶詰工場が受け皿となり、アスパラガスの作付面積が増えていき、昭和50年には195ヘクタールにまで増えています。(「開基百年上湧別町史」372ページより)
ここで、アスパラガスの概要を記します。
アスパラガスは雄株と雌株が有り、雄株は花粉を飛ばし、雌株の花は花粉を受粉して秋口には赤い実を付けます。
アスパラガスは永年性の作物で、30年くらいは収穫出来ます。
アスパラガスは若茎を収穫して食しますが、この若茎をいかに多く収穫出来るかが鍵になります。
ホワイトアスパラガスは5月中旬から7月上旬まで収穫していましたが、この若茎は地下の根に蓄えられた養分を使って出てきます。
アスパラガスの収穫の終了後は、若茎をそのまま伸ばし茎葉を繁茂させ、根から吸収した栄養素と茎葉の光合成で生成した養分を根に如何に多く蓄えさせるかが翌年の収穫に大きく影響してきます。
従ってアスパラガスの苗を定植しても、根が大きくなり養分を十分に蓄えられるまで収穫出来ないので定植後2~3年は収穫できません。
初めて収穫する年も2~3週間で収穫を切り上げ、根が大きくなり、株の大きさが一人前になるまで収穫期間を短くし株の養成に努めます。
従って、肥料を十分にやって、茎葉を繁茂させ、霜が降りるまで茎葉を青々とさせて光合成で作られた養分を根に如何に多く蓄えるかが、翌年度の収穫量を決めることになります。
そのため、茎枯病や斑点病などに罹ると、霜が降りる前に茎葉が枯れ、根に十分な養分が蓄えられなくなり翌年の終了が激減してしまいます。
昭和60年くらいまでは、茎枯病や斑点病の発生もなく防除の必要もなかったのですが、昭和の終わりから平成にかけて茎枯病や斑点病が蔓延し出して、防除をしなければならなくなってきました。
防除が徹底されずに一つの圃場で蔓延すると、隣の圃場に伝播し蔓延するようになり、収量が減少していきました。 これが上湧別地区でアスパラガスが衰退して行った要因のひとつです。 ホワイトアスパラガスはアスパラガスの畝に土を盛り、培土された土の中で生育してきた若茎が地表に出て太陽光に当たって色が付く前に収穫します。 若茎が成長することで出来る盛土のひび割れを見つけて、専用のノミを深く刺し一定の長さで収穫していきます。
太陽光に当たるとホワイトアスパラガスの先端部は紫色に変色するため、朝4時頃から起きて収穫する作業が2ヶ月ほど続きます。
睡眠不足になりますし、かがみ込んで作業するので腰も痛くなり、圃場を歩く距離も長くなり結構な運動量となることから、重労働と言っても良いでしょう。そのような重労働をしても、収量が下がり、収益が減少していくとアスパラガスの作付け意欲も低下していき、別な作物を模索していくようになりました。
もう一つのアスパラガス衰退の要因は、中国から安いホワイトアスパラガス缶詰が大量に輸入されてきたことです。
日本産と中国産のホワイトアスパラガスの缶詰の価格は倍以上の開きがあったと記憶しています。
ここで、当時作付けされていたアスパラガスの品種はメリーワシントン500W(以下MW500W)でした。
品種名の500の次のWはwhite(白)でホワイトアスパラガス専用という意味です。
MW500Wはホワイトアスパラガスとしては非常に収量の多い品種でした。
草丈も2m以上になり、茎葉の繁茂も良いことから根に蓄えられる養分も多くなり、収量も比例して多くなります。
この品種は培土しなければグリーンアスパラガスとしても収穫出来ますが、欠点は若茎の先端の絞まりが悪い点です。
先端の絞まりが悪いとグリーンアスパラガスとしての商品価値が落ちます。
若茎の先端は成長するにつれ枝葉になりますが、先端の絞まりが悪いということは枝葉の生育が早く繁茂しやすい、生育が良い、つまり根に養分が多く蓄えられる、収量が多いと言うことになります。
この生育の指標にGI調査(グロースインデックス)という調査方法があります。
1株の平均草丈と茎数と平均茎径を乗じた数値を得ることで、その株の生育状態を数値で表すものです。
このGI値が大きいほど、根に蓄えられる養分も多くなることから、翌年の収量も多くなることが見込まれます。
MW500Wは種子から苗を作り、定植から3年ほど経過してから収穫していきますが、その一株毎の収量も調査するとかなりの収量差があることが分かります。
また、雄株と雌株がありますが、雌株は種子を作るため養分が種子に回されるため、根に蓄えられる養分が雄株より少なくなり平均収量は雄株より少なくなります。
また、形状も雄株は平均的な太さで本数も多く出ますが、雌株は出芽本数も少なく、若茎が太くなる傾向にあります。
それに加えて、雌株は種が圃場に落ち実生が雑草となり、実生から成長したアスパラガスは、元の雌株と見分けがつかなくなり、その株の回りの栄養分を吸収するとともに細くて売り物にならないアスパラガスが出てくる原因にもなります。
したがって、より収量が多いアスパラガス畑にするには、圃場からGI値が大きく収量の多い雄株を探し出し、その株を大量増殖すれば良いという話になります。
昭和60年につくば万博が開催され、「トマトの木」が展示されるなどバイオテクノロジーがブームになるきっかけとなりました。
当時の上湧別町役場の開発課が北海道大学農学部蔬菜園芸研究室の八鍬利郎教授(故人)に相談したところ、収量の多いアスパラガスを試験管内で大量増殖が出来るという話を聞き、上湧別町でもやってみようという話になりました。
八鍬教授はアスパラガス、タマネギ、ナガイモの研究など園芸野菜分野で有名な先生でした。
この技術は試験管内でアスパラガスを株分けして増やす様な方法なので、オールドバイオテクノロジー(オールドバイテク)~最先端の技術ではなく昔ながらの古い技術~ということで、1年間北海道大学で研修を積めば、最小限の設備で実施可能という話でした。
そのため、北海道大学において研修生としてアスパラガスの試験管内の増殖技術を学びました。
当時、富良野農協や旭川園芸センターからもアスパラガスなどの試験管内増殖技術を学びに研修生が来ていました。
1年の研修の後、昭和61年からアスパラガスの試験管内増殖に取り組み始めました。
次回に続く・・・