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防風林?それとも目隠し?―開拓時代の道路の面影《続編》―

寄稿記事Vol.9
寄稿記事Vol.8の続編が届きました!
昔は集落を木で囲っていた…?よみがえる昔の記憶と、写真からわかる事実。
寄稿記事「普段何気なく通る道を調べてみたら ―開拓時代の道路の面影―」を読んでから、本ページを読むことをお勧めします!

note中の人

1.屯田兵集落と道路

昭和43年に発行された旧上湧別町史(昭和43年発行)には屯田兵の集落位置と戸々の屯田兵の兵屋の位置が掲載されています。

上湧別町史(昭和43年発行)P.115より

中隊本部(現上湧別中学校敷地)は湧別基線道路(国道242号線)に面していますが、五中隊一区~三区、及び四中隊一区~三区の集落は湧別基線道路から百間ほど(約200m)入った各号線を含んだ位置に設けられています。

湧別基線道路には屯田市街地や中湧別市街のように商業地として発展してきましたが、兵村集落を基線道路に設けると商業地発展の妨げになると見越して、基線道路から奥まった位置に兵村集落を設けたのでしょうか。

南兵村二区の国道沿いにも何時の営業開始か判りませんが2軒の雑貨・食料品店が昭和の終わり頃まで営業していました。

入植当時の集落図を見ると現在の道路と様相が異なっているのが分かります。

上湧別町史(昭和43年発行)P.100,101より

見づらいと思うので、書き加えました。

拡大してご覧ください

五中隊一区、四中隊一区、四中隊二区の集落は12号線、23号線、20号線を挟んで号線道路の南北に道路を設けて兵屋を配置し、屯田兵集落の周りを10間幅(18m)の防風林で囲んでいるのが分かります。

上湧別町史によると、このような集落配置の構成を「密居法」というようです。

屯田兵の住居を兵屋と言いますが、屯田兵の兵隊としての役割を考えると、庶民の居住地というよりは、兵舎(駐屯地)という考え方が優先されているように思えます。

この屯田兵集落を敵から守るという観点から防風林は本来の風よけ以外に敵から居住地を隠す目隠しの役割を担っていたと考える事が出来るのではないでしょうか。

また、屯田兵集落から出る道路が4中隊3区を除いて極端に少ない事が分かります。

五中隊一区は12号線の東西に2箇所の出入り口、四中隊一区と四中隊二区は23号線、20号線の東西に2箇所の出入り口に加え、東1線の南北の出入り口を加えた4箇所しかありません。
兵舎(駐屯地)を守るという考え方からすれば、出入り口を少なくすれば、防御もし易くなるでしょうし、防風林は身を隠す壁(城壁)にもなり得るでしょう。
しかし、現役解除により屯田兵の職務が解かれ兵舎(駐屯地)としての役割を終えると、集落の出口が2箇所や4箇所では不便なため、号線道路の南北に設けられていた道路は基線道路まで延長されて、四中隊二区では現在の南兵村二区北通り、南兵村二区南通りになっていったのでしょう。

現在の南兵村二区の国土地理院地図より
現在は基線道路まで延長され、「南兵村二区北通り」「南兵村二区南通り」
となっているのがわかる

2.屯田兵集落の防風林

昭和28年発行の上湧別村史には南兵村二区中通りの風景写真が掲載されています。

上湧別村史(昭和28年発行)より
一番上の写真が南兵村二区中通りです

旧中土場川の橋があり、川と鉄道の間には水田があり、刈り取られた稲穂が稲架(はさ)掛けされていて、鉄道の踏切の奥には背の高い木が密植されているのが見えます。

これらの木々は四中隊二区の集落配置図でみると、野口寿一郎屯田兵の西側で防風林のあった位置にあります。

上湧別町史(昭和43年発行)P.100より


明治30年の入植から写真が掲載された昭和28年は60年近く経過しており、これらの木々の樹高は相当高くなっているので、当時の防風林の一部ではないかと思われます。

下の写真は昭和50年前後に私の母が南兵村二区南通りの踏切から蒸気機関車を撮った写真です。

汽車の後ろ姿の写真には、南兵村二区中通り方面が写っており村史の写真で確認できる木々も写っています。
村史の写真を見たとき、杉の木かと思いましたが、村史の写真や蒸気機関車を撮った写真からも樹高が相当高く、冬は落葉しているようなので、ポプラの木でなないかと思われます。
ポプラは生育が早いので、早く防風林の役目を果たすには向いていたのかもしれません。
10間幅(18m)で集落を囲む防風林の延長は1Km以上あったはずですが、その防風林も作物の日陰の原因となって生育が遅くなることから嫌われ伐採されて、今はその面影もありません。

この規模のポプラの防風林が当時の規模で残っていたら、北海道大学のポプラ並木同様に「映える」風景として有名になったかもしれないですね。

鉄道跡地道路から南兵村二区中通り方面を写したもの
土場のタマネギ用鉄コンテナを置いてある付近に屯田兵兵屋が建っていた。
ポプラの木々も伐採されて無い。
蒸気機関車の写真と見比べると風景が一変している。

3. 基線道路から東1線までの距離と西1線までの距離の違い

湧別平野は開拓時に300間(約550m)の間隔で道路によって四角に区切られていますが、上湧別地区に入ると東1線は基線道路からほぼ300間で引かれていますが、西1線は基線道路から300間より短い距離で引かれています。
更に四中隊三区の集落も横長で、他の集落の配置と異なります。
これは集落予定地に川や湿地帯があったため、西1線を基線から300間の距離を取ることが出来ず、また集落の形状も川や湿地帯にかかるため横長にする必要があったと想像されます。
 
いまは、土地改良などにより小川はほとんど見られませんが、私が子どもの頃の昭和30年代にはあちこちに小川が見られました。
南兵村三区の地番図を見ないと分かりませんが、実家が所有していた畑やチューリップ公園のあちこちに川の跡と見られる地番割りが見受けられます。
このようなことから、川や湿地帯が道路や屯田兵集落の位置に影響を与えたのではないかと想像しました。


今回の寄稿記事を投稿するにあたり、普段何気なく利用している道路からも、開拓当時の地図を見たり、道路の特徴を見ることで、色々な事が判ったり、また疑問も湧いてきたりして面白く思いました。

南兵村二区を走る鉄道(名寄本線)


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