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湧別町にまつわる記事を提供してくれた方の記事をまとめています。noteアカウントをお持ちでない方、町外の方からの記事もお待ちしております^^♪
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寄稿記事を募集します。

こんにちは。湧別町公式noteを担当する地域おこし協力隊 竹内咲樹(たけうち さき)です。 唐突ですが、湧別町公式noteでは、“湧別町の魅力”を伝えたい方々の寄稿記事を募集します! 「湧別こんなところもあるよ~」「ここからの景色がおすすめ!」「昔はこうだったんだよ」「ホタテ、こうして食べると美味しいよ」などなど、ジャンルはなんでも構いません。一緒に湧別町の魅力を発信しませんか? なんてったって、主な担当者は“ヨソモノ”ですから。足りない部分、知らないことだらけなので。そ

主要作物の転換期に農家・農協・町・農業改良普及所はどう行動したかNo.4

~上湧別町寒地園芸営農センターの果たした役割~上湧別町寒地園芸営農センター(以下園芸センターと省略)は上湧別町と上湧別農協、北海道農業改良普及所などで構成されていた上湧別町農業推進協議会で運営されていました。  ここで掛かる経費は町と農協の折半でした。  当時のワープロで印刷されたパンフレットにあるように圃場を有していて、農業改良普及員(以下普及員と省略)が圃場で栽培試験を行い、その試験結果に基づいて栽培方法、施肥や防除などについて農家を指導していました。 当時の普及員は農

主要作物の転換期に農家・農協・町・農業改良普及所はどう行動したかNo.3

~基幹作物の模索~タマネギ栽培へ~ アスパラガスの作付面積が減少していき、基幹作物を模索していく中で、タマネギを推す動きが出てきます。  このタマネギが農協によって計画的に作付けされるようになったのは、昭和46年に当時の上湧別農協の農産課長が北兵村一区の農家にお願いして、最初に本格的に作付けしてもらったのが始まりです。  タマネギを推奨する一番の理由はタマネギが高収益な野菜だということです。  また、連作が可能であり、大きな面積に作付け可能で当時の町内の平均耕作面積10ha前

主要作物の転換期に農家・農協・町・農業改良普及所はどう行動したかNo.2

~バイオテクノロジーでアスパラガスの増殖を試みた時代~No.2 アスパラガスの増殖施設は上湧別町寒地園芸営農センター(以下園芸センターと省略)の土壌診断室を改造して作ることになりました。  農業改良普及所が湧別町に集約され土壌診断がそこで行われるようになったため、空いた園芸センターの土壌診断室を利用することになりました。  建物を新築してバイオテクノロジー施設(以下バイテクと省略)を整備する団体もありましたが、北海道大学の当時の施設は教室を仕切っただけの簡易的な施設だったの

主要作物の転換期に農家・農協・町・農業改良普及所はどう行動したか No.1

~バイオテクノロジーでアスパラガスの増殖を試みた時代~上湧別地区の湧別平野は湧別川によって作られた肥沃な土地で畑作に適しています。 明治30年からの屯田兵開拓からいろいろな作物が作られてきましたが、時代の移り変わりとともに、主要作物も変化してきました。 今は全く見ない稲作も減反政策が行われるまで作付けされていました。 昭和40年代までは北限のリンゴで有名でした。 リンゴが腐らん病・黒星病などで衰退すると、畑作3品(ビート・ジャガイモ・小麦)とともにホワイトアスパラガスが高収益

じいちゃんから聞いた「松」の話

この寄稿記事を拝読し、じいちゃんから聞いたことを思い出しました。 「この松はね、俺の…爺さんだったかひい爺さんだったかが、内地からリュックに入れて持ってきたんよ。リュックにね、苗木を。」 立派に育ったアカマツは 樹齢80年ほどになるのでしょうか。 今もじいちゃんがきちんと剪定して庭のシンボルとして家を守るように佇んでいます。 寄稿記事の筆者は「北海道に自生していないアカマツが兵村地区の各戸にあるのは、本州の樹木が懐かしく感じる屯田兵家族が各自で購入した?」と予想されてい

兵村地区のアカマツ・クロマツ

 兵村地区に行くとオンコの木を主体にアカマツやクロマツが庭に植えてあるのが見られます。 私の実家にもクロマツがありましたが(数年前に伐採)、何時ごろからあるのか、今は亡き父に聞いた事がありました。 父が生まれる前からあったそうで、昭和30年代の写真をみても大きさから明治後期・大正時代の植樹のようです。 近所の庭には必ず1本はアカマツやクロマツがあったような記憶があります。  しかし大きくなりすぎて、電線にかかったり、畑の日陰になったり、道路に枝がはみ出し車線を覆うほど張り出

防風林?それとも目隠し?―開拓時代の道路の面影《続編》―

1.屯田兵集落と道路昭和43年に発行された旧上湧別町史(昭和43年発行)には屯田兵の集落位置と戸々の屯田兵の兵屋の位置が掲載されています。 中隊本部(現上湧別中学校敷地)は湧別基線道路(国道242号線)に面していますが、五中隊一区~三区、及び四中隊一区~三区の集落は湧別基線道路から百間ほど(約200m)入った各号線を含んだ位置に設けられています。 湧別基線道路には屯田市街地や中湧別市街のように商業地として発展してきましたが、兵村集落を基線道路に設けると商業地発展の妨げにな

普段何気なく通る道を調べてみたら ―開拓時代の道路の面影―

1.北海道によくある道路名北海道内を旅行すると「10号線道路」とか「西3線道路」とかいう標識を良く目にします。 バス停留所にもそのような名称があります。 明治以降、北海道開拓によって土地が測量され、道路整備や区画整備が本格化するにつれて碁盤の目のように道路が割り当てられた名残が、この番号がつけられた道路名称です。 NHK衛星放送の「こころ旅」という番組があります。俳優の火野正平が視聴者からの「思い出の場所」を書いた手紙を元に自転車でその場所に向かって旅する番組です。 こ

畑から出てくる砂利は厄介者?

1.重機が作業する風景この写真を見たら何か建物を建てるための基礎工事をしているのかと思うのではないでしょうか。 実は畑の砂利を採取しているのです。 湧別平野の西側を1級河川の湧別川が流れています。 湧別原野に屯田兵が入植し開拓される前は湧別川には堤防もないので、大雨が降る度に氾濫し上流から土砂や砂利を運んできました。 そのため、上流の山々の表土も運ばれてきて肥沃な土地でもあるのですが、砂利も同じように運ばれてきました。 このため、湧別川に近い畑は特に砂利が多くなり、湧別川

上湧別屯田市街地の遊歩道紹介

上湧別屯田市街地の散歩道高齢者の散歩や、飼い犬の散歩は町内でも良く見かけます。 上湧別屯田市街地を走る国道242号線の道路幅は片側二車線確保出来るぐらいの広さ(実際は二車線の基準を満たすには少し狭い)があります。 それに加えて歩道幅も5mはあり、散歩するには十分な広さがあります。 コンビニに出入りする車や町道との交差点になる横断箇所を除けば比較的安全に散歩が出来るでしょう。 歩道の幅は狭くなるものの湧別の漁港から遠軽方面の開盛橋手前まで約14Kmにわたって両側に歩道が設置さ

見晴らしの良い景色【旭・五鹿山(ごかざん)】

湧別町にはオホーツク海に面していて、かつオホーツク海の海水が流入するサロマ湖があり、ホタテを中心とした漁業、水産加工業が盛んです。 このオホーツク海、サロマ湖を高い位置から見る景色も素晴らしいものです。 旭牧場の下から見る景色も遠くは紋別方面、湧別市街地方面が見渡せます。 オートキャンプ場やログキャビンが整備されている五鹿山公園も見晴らしが良い場所です。 展望広場に行く途中の樹木が途切れている場所の風景です。 湧別の酪農地帯とサロマ湖方面が見渡せます。 展望広場に行くと、

マッチ産業の面影【丸玉工場の跡】

道々上社名淵上湧別線(通称18号線)をウォーキングコースとして歩き始めました。 この道路は国道242号線から上湧別橋手前まで南側に片側歩道が設けられています。 この道路の上湧別端手前の歩道側に「丸玉工場の跡」という記念碑があります。 「明治40年、大阪の井上貞次郎等がこの地にマッチ軸木工場を建設した。 その後大正5年、丸玉鈴木商工株式会社が工場を買収し、(玉)湧別工場として、ベニア製造、製軸事業を行い、最盛期には八十余名の社員を有していたが、大正10年に工場を閉鎖した。」

小麦畑のある景色

7月下旬になると、秋まき小麦の収穫がこのオホーツク管内でもあちこちの市町村で始まります。 秋まき小麦は、前年のタマネギやビート(甜菜~別名「砂糖大根」)などの収穫直後の畑に播種され芽吹き、降雪前には畑は緑色に覆われます。 融雪時に越冬した小麦は残雪の中で緑鮮やかに見えます。 タマネギの移植やジャガイモやビートの播種が終わり、畑が緑で覆われてくると、小麦は出穂(しゅっすい~穂が出ること)が始まり、小麦の色は淡い緑に変化してきます。 そして収穫期を迎えた小麦は薄茶色に変色し周